今回は、自分の大学時代の競技生活について書いていこうと思います。
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怪我ばかりの競技生活
前回の記事で、私の簡単な競技生活について書きましたが、私の競技生活はいつも怪我との格闘でした。10年の競技生活で経験した怪我の種類は以下の通りです。
- 脛骨(すね)の疲労骨折 10回以上
- アキレス腱周囲炎
- 足底筋膜炎
- ハムストリングス肉離れ
- 中臀筋の炎症
- 大腿四頭筋の炎症
- ヒラメ筋肉離れ
- その他
思い出せるだけでこれだけの怪我を経験しています。特に両脛(すね)の怪我とはずっと付き合ってきました。今でも、痛みが完全には抜けてはいない状態で、きっと完治はしないと思います。
私は、レースになるといつも以上に高いパフォーマンスを発揮することができるいわゆる本番に強い選手でした。練習で経験している強度よりも強い負荷が脚にかかってしまうので、自己ベストを出した後などレース後に壊れることが多かったです。ただ、10年間で毎年自己ベストを更新することができたのは、頑張って良かったかなと思います。
大学1年と2年では実力がなかったので、5000mの記録会が中心の出場でしたが、自己ベストは1年時に20秒、2年時にさらに17秒更新しました。ただ、自己ベストを出したあとは、身体がパフォーマンスに耐えられなくていつも怪我との闘いでした…
大学3年で訪れた最大のチャンス
それでも、大学3年の秋には大きなチャンスが回ってきました。夏合宿に怪我明けだったため、毎日練習の強度を落として1日に45kmくらいひたすら走り込みをして脚作りをしたら、フォームがしっかりと固まり、上手く走れるようになりました。その後、地方の大会にゲストとして派遣してもらい、10kmのロードレースで実業団選手に勝って優勝したり、初めての10000m記録会で転倒しても好記録で走ることができて、秋に入学してから初めて主力選手がいるAチームに合流することができました。
練習で自己ベストに近いタイムで走ったり、今まで経験したことのないペースで走ったり、厳しい練習が続いていましたが、Aチームの中でも4~5番目で余裕を持ってこなすことができました。箱根駅伝のエントリーメンバーを決めるハーフマラソンのレースにもエントリーしてもらえて、監督から、ある程度走れたらメンバーに入れると事前に話をしてもらいました。
そんな中での落とし穴
レース当日、食事の時間設定に失敗し、レース中に消化不良から腹痛と吐き気が出てしまい、フラフラになりながら、設定タイムから10分以上遅れる大失敗レースとなりました。大学4年間で大失敗したレースはこのレースだけでした。一度大きな失敗した選手は、使いづらい印象が残ってしまうため、この時、私の4年間での箱根駅伝出場の夢は終わりました。
4年生になって
もともと高校生の頃から3000mSCという種目を専門に取り組んでいたので、最後の1年ということで、コーチにやらせてほしいと直訴しました。コーチからは関東インカレと言われる関東の大学の対抗戦の高い設定の方のA標準記録を1回で突破できなければ、下級生を出場させると言われました。1回チャンスをもらえたので、合宿でも別メニューで調整させてもらい、記録会で自己記録を13秒更新してA標準記録を突破することができました。
4年になって最後の対抗戦で初めて正式ユニフォームを着ることが決まりました。入学前から正式ユニフォーム着ることに憧れていたので、嬉しくてなんとしても結果を出したいと思い、準備をしました。
最後の関東インカレ
3000mSCは予選と決勝の2レースがあり、まずは予選を通過することが必要です。ただ、予選の前は調子が全く上がらず、厳しい状況でした。予選では、後方からのレースでゴールしたときにあと1人のところで、予選落ちでした。落ち込んで監督コーチのところに行ったら、来週の決勝に向けて仕上げていこう言われて、混乱しました。なんと、前の組で失格者が出て、繰り上がりで決勝に進出していました。
予選のレースが終わり、身体の重さがスッキリして、今まで経験したことのない、絶好調の状態になり、別人のように走れるようになりました。
決勝のレース前は、楽しみでワクワクしすぎて武者震いしていました。本当なら予選落ちだったので、後悔のないレースにしようと思い、決勝に出場しました。ペースは速いのに余裕があり、気がついたら先頭を独走していました。あとで聞いた話では、応援席では大盛り上がりで大変なことになっていたそうです。残り1000mを切ってこのまま優勝できるかもと油断して、競技生活で初めてハードルに膝を強打してしまい、最終的には失速して入賞を逃しましたが、ほぼ自己記録でした。
今まで、褒められたことはあまりなかったのですが、レース後には、ほとんど話したことのない総監督や日本チャンピオンの同期やオリンピックに出た先輩から、いいレースだったと声をかけてもらったのが今でも誇りです。このレースはチームの同期や後輩の記憶に強く残っていて、今でも会うたびにこのレースの話が出てきます。結果を残せたわけではないですが、やりきったという気持ちが強くありました。
燃え尽き症候群
関東インカレのあとに、教育実習で3週間チームを離れて、また怪我をしてしまい、目標を見失っていました。自分の役割はなんだろう?チームに貢献できることはなんだろう?と考え悩むようになりました。自分の役割は、Bチームを背中で引っ張り、一人でも多くAチームに上がれるようにすることと思うようになりました。
練習では、先頭で完璧にペースメイクをしたり、離れそうな後輩に声をかけたり、背中を押したり、コミュニケーションをとったりしました。もちろん、自分も可能性があれば、箱根駅伝を走りたいとは思っていましたが、チーム全体のレベルアップを重視しました。最後に5000mで3秒だけ自己ベストを更新しましたが、エントリーメンバーには入れず、箱根駅伝を走る夢は終わりました。
最後の箱根駅伝
最後の箱根駅伝は、同期が4人重要な区間を走りました。怪我で走ることができなくなった人の代わりに2区間で同期に給水することになりました。最後の最後にたった100mだけですが、夢の舞台を走ることができて嬉しかったです。
そして、チームは大接戦を制して総合優勝をすることができました。4年生は全員ゴールエリアに入ることができて、ゴールを待つときに校歌を歌いながら涙が止まりませんでした。監督の胴上げもすることができて、最高の終わり方でした。
実業団から競技を続けてみないかと話をもらい、競技を続けるか迷いましたが、怪我が多いことは自覚していたので、お金をもらって怪我ばかりだとチームに迷惑をかけてしまい申し訳ないし、気持ちが持たないと思い、大学で競技引退することを決めました。
最後に…
長くなりましたが、卒業してから10年以上経っても、鮮明に覚えているということは、私の中で大切な4年間だったのだと思います。
スポーツは活躍することで注目を集めますが、活躍することだけではなく、どのように取り組んできたかということが大事なのだと思います。
なんだか、少し走りたくなってきたので、久しぶりに走ってみようと思います。
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